4 檜原村のうつりかわり
 (3) くらしのうつりかわり

 交通などのはったつにより、人びとの生活はどのようにかわってきたのでしょう。

 あきら君たちは、くらしがどのようにかわったかについてしらべ、話し合ってみることにしました。
 何をしらべるか、どのようなことをしらべるか、次のような(ひょう)を作ってみました。



 しらべることがたくさんあるので、みんなで分たんしてやることにしました。
 あとでまとめやすいように、メモのとり方などについても話し合い、じゅんびをととのえてからはじめることにしました。


(きゅう)(きゅう)(しゃ)
自動車の数
(じょう)(よう)(しゃ) ()(りん)(しゃ)
昭和45年
(1970年)
522 331
昭和50年
(1975年)
790 232
昭和55年
(1980年)
986 268
昭和60年
(1985年)
1108 246
平成2年
(1990年)
1411 596
平成7年
(1995年)
1477 539
平成12年
(2000年)
1410 463
平成13年
(2001年)
1369 360

あきる(びょう)(いん)





くらしにつかわれた古い(もの)(どう)()
あかり
ひでばち

しゅろみの

ランプ

とうみ

ふちがみ

しょいばしご
ひでばち、ひじろ、たいまつ、ランプ、ろうそく、手ランプ、ちょうちん、ガスランプ、自家(はつ)(でん)
はきもの
わらぞうり、げた、わらじ、地下たび、たび、ゴムぐつ
(あま)()
ばんがさ、みの、ひのきっぱり(日よけにもなった)、かっぱ
きもの
きもの、じゅばn、おび、もんぺ、そでなし、半てん、ちゃんちゃんこ、ふんどし、ももひき、はらがけ、えりまき
食き
めんぱ、ぜんばこ、おわん、てつびん、てっき、ほうろく、てつがま、てつなべ、みぞがめ
(のう)()
せんばこき、とうみ、ふみがら、み、ふるい、足ぶみだっこくき、くるり、くわ、こいかご、むしろ
(やま)()(ごと)
かま、大なた、さやなた、かぎなた、とび、のこぎり、まえびき、下がりがま、おの、まさかり、ちょう、たわらあみのうま
(かいこ)
いととりき、いとあげき、このめ、蚕あみ、まかいこぶし、けばとりき、くわきりがま、むしろ、(かい)(てん)まぶし
○生活用
しょいばしご、くずはきかご、めなしかご、てんびんとおけ、しょいおけ、ひきうす、うす、きね、木ばち
○火をもやすところ
火じろ(いろり)、かまど(へっつい、ふろ、火ばち)





 あきら(くん)たちは、おとしよりの人に話を聞いたり地いきを歩いてしらべているうちに、電気や電話や水道も地区(ちく)によりひけた年がちがうことを知りました。
 そこで、電気や電話などがなかったころのようすをもっとくわしくしらべてみることにしました。

ランプのじゅんびや手入れはどのようにしたのか。それは、おもにだれがしたのか。
ごはんをたいたり、だんぼうはどのようにしたのか。
きゅうな(よう)()やれんらくはどのようにしたのか。(きん)(じょ)の人や親せきの人の(やく)わりはどうだったのか。
水の()(よう)のしかたは、家によってちがっていたのかどうか。高いところ、(さわ)に近いところの家をしらべる。
いどや、水くみ、水をひいて使(つか)う方ほうについてしらべる。


南秋川(じょう)水場(数馬)
(しょう)()55年(かん)(せい)

ランプ生活の思い出((しょう)()35年)
 ランプ生活の時はふべんだった。夜、便(べん)(じょ)に行くのに手さぐりで行って(はしら)にぶつかって大きなこぶを出したことや、はきものをはこうとして(だい)(どころ)()())に()ちたことを(おぼ)えている。それが今では、スイッチをひねると「パッ」と(あか)るくなる。電気をつければ、前のことが思い出されてとてもおかしい。
 電気がついてから、家の人が明るくなったようだ。


電話がなかったころの学校((しょう)()30年)
 (ぜん)(そん)に電話がひけて30年いじょうたちました。電話がなかったころ、何か(よう)()があったとき学校では、どうしたのでしょう。
 先生が、本校まで歩いて行ったり、だれかついでの人にたのんだり、手紙を書いたりで、れんらくするのに、とても大へんでした。


ランプ

電話

こどもが水くみをしているところ

おばあさんが子どものころ((めい)()おわり〜(しょう)()はじめ)
 「()(もの)は、いもや(むぎ)(るい)ばかりで、今のような白いごはんやおかずはなかった。おかしやラーメンなどもなく、少しあったのはアメ玉ぐらいのもんだったよ。お正月やおまつりに米のごはんを食べるのが、そりゃあたのしみだった。
 子どもは、まきひろい、子もり、(すみ)しょい、水くみ、そうじなどやらされたもんだよ。今のようにべんきょう、べんきょうとは言われなかったが、家のつごうで学校をよく休ませられたもんだ。
 ()(もの)にいった記おくはなく、買う(しな)(もの)といったら、しおや米や魚くらいだったかなぁ。みそやしょうゆも、自分の家でつくるところが多かった。
 (めい)()のころは、たほという(ふじ)からつくった()ものをきていたもんだ。
 びょうきになっても()(しゃ)にも行けず、やく草などをのんでなおしたもんだよ。」((ふじ)(くら)のおばあちゃんの話)


うすきをしているところ
(麦や
(こな)をひいて食べ物を作った)

炭をやいているところ





 せんそうのころ((しょう)()(ぜん)()

 (しょう)()12年に日本は中国とせんそうを(はじ)めました。そのあとアメリカやイギリスなどともせんそうをし、(しょう)()20年8月15日に()けるまでの長い間、たくさんの人がせんそうに行き、()んだり、きずついたりしました。家にのこった人も、せんそうのためにいろいろな()(ごと)をさせられたり、()(ゆう)な生活はできませんでした。
 学校では、(べん)(きょう)のほかに、まき(はこ)びや(のう)()の手つだいもやらされました。
 また、()(かい)の小学生は、くうしゅうをのがれるため、いなかのしんせきやお寺に、そかいしました。
 せんそうが()わってからも、しばらくの間、人びとは(しょく)(りょう)()(そく)や、やけ野原になった国をたてなおすためにくろうしました。
 そして、()()とせんそうをしないことを()め、新しい日本の国づくりにがんばりました。


空しゅうでやけ()(はら)となった(はち)(おう)()(こう)(しゅう)(かい)(どう)

きんろうほうし
 せんそうがはげしくなるにつれ(こく)(みん)は、だれもが、国のためにということで、せんそうの手つだいをさせられました。(ぼう)(くう)ごうをつくる、こう(ぼく)(はこ)びやまき(はこ)び、(ぐん)(ねん)(りょう)に使う(しょう)(こん)()とりの()(ごと)などです。

そかい
 せんそうで、ばくだんがおとされ()かれるのは、たいてい大きな町でした。そこで、町の子どもたちは、空しゅうからのがれるため、家ぞくとはなれて、いなかの(しん)せきやお寺などで、せんそうが()わるまで、さびしく生活をしていたのです。


  • 檜原村からせんそうに行った人数 (821人)
  • せん()した人数 (217人)


 大きくかわった生活

  (しょう)()30年すぎになると、テレビや洗たく()、そうじ()などが、どこの家にも入るようになりました。
 (どう)()も、広いほそう(どう)()にかわり、車の数もふえてきました。そして、車で町へはたらきに行く人がふえてきたのです。
 また、(せき)()やプロパンガスが、まきや(すみ)にかわって、(ねん)(りょう)の中心になりました。
 このころから町へ出ていく人も多くなり、檜原村の人口は、へりつづけているのです。




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